霧の褥(しとね) 〜本能寺の変・異聞〜

なぜ織田信長は?
本能寺を包囲した明智軍は約一万三千。対する信長の近習は百名程度であったと伝えられる。
兵力差だけを考えれば、戦闘は短時間で終結しても不思議ではない。
しかし、記録では本能寺は激しく抵抗し、炎上するまで約二時間を要したとされる。
その二時間、本堂の奥で何が起きていたのか。
信長は本当に、その場で自害したのだろうか。
本能寺で死亡したという一次史料は存在しない。
遺体確認も行われていない。
明智軍は何らかの目的で信長を生け捕りにしようとした可能性?
一、白き影
天正十年六月二日、卯の刻(午前四時)。
京都・本能寺は、突如として現れた一万三千の明智軍によって完全に包囲されていた。
地を震わせる鬨(とき)の声と、無数の松明が放つ不気味な赤き光が、夜明け前の闇を血の色に染め上げていく。
「押し通せ! 一兵たりとも逃すな!」
先陣を切る明智の兵たちが、槍を構えて総門へと雪崩れ込む。
百名に満たない信長の近習たちは、文字通り肉の壁となって激しい防戦を繰り広げていた。
寺院のそこかしこから火の手が上がり、黒煙が天を覆う。
その凄惨な戦場の真っ只中、燃え盛る総門から、忽然と姿を現した一団があった。
頭からすっぽりと白い布を被り、顔を隠した「白装束の者たち」である。戦火の中を、まるで幽霊のように音もなく、静かに歩いてゆく。
「曲者(くせもの)か!?」
色めき立ち、槍を向けようとした明智の足軽の肩を、物頭(指揮官)が強い力で掴んで引き戻した。
物頭は青ざめた顔で、厳しく片手を挙げ、周囲の兵たちに無言のフェンスを作った。
「構うな。あれには決して手を出すな。――大将(光秀)様からの厳命である」
前線兵士たちの視線の先を、白き一団は何事もないかのようにすれ違い、洛中の闇へと消えていった。
戦場の喧騒の中で、その一角だけが、氷のように冷たく不気味に静まり返っていた。

二、闇を往く輿
本能寺の本堂の奥は、すでに火の海と化していた。
織田信長は、左腕に深く傷を負い、朱に染まった南蛮胴(鎧)をきしませながら奥の密室へと退いていた。
もはやこれまで――。そう覚悟し、自害の座を定めようとしたその瞬間、床板が音もなく跳ね上がった。
現れたのは、先ほどの白装束の一団であった。
「何奴……!」
信長が刀を抜こうとしたが、傷ついた体は思うように動かない。白衣の男たちが手際よく信長の身を組み伏せ、その口元へ、妖しく煙を上げる香を押し付けた。
「おのれ、朝廷の……」
言葉を吐き出す間もなく、信長は深い意識の闇へと突き落とされた。
本能寺の裏手、陰陽道において「鬼門」と呼ばれる北東の勝手口。
そこには、一台の網代輿(あじろごし)が待機していた。炎のバックライトを浴びて漆黒のシルエットとなったその輿に、
ぐったりとした天下人の身体が運び込まれる。
周囲を取り囲む明智の包囲網は、まるで最初から知っていたかのように、綺麗にその進路を空けていた。
輿のすだれのわずかな隙間から、意識を失った信長の、金銀の象嵌が施された南蛮胴の一部だけが鈍く光り、
そして夜霧の中へと吸い込まれるように消えていった。
明智光秀がどれだけ焼け跡を掘り返そうとも、信長の首も、愛刀の残骸も、
ただの一片の骨すらも見つからない理由を、この時、前線の兵士たちは誰も知らなかった。

三、神泉苑の裁判
信長が目を覚ました時、そこは本能寺の地獄のような熱気とは正反対の、静寂が支配する空間であった。
ひんやりとした風が通る、格式高く立派な公家屋敷の大広間。
周囲は、伝統的な山水画が描かれた見事な金碧障壁画(豪華な襖絵)に囲まれ、太い漆塗りの柱が重厚な影を落としている。
天井からは格式高い提灯が吊るされ、揺れる蝋燭の光が室内を不気味に照らしていた。外の火の粉も、戦の音も、ここには一切届かない。
信長は、冷たい畳の上で両腕を後ろ手に縛られていた。しかし、その眼光は衰えず、牙を剥くように正面の闇を睨みつけた。
一段高い上段の間。そこに、伝統的な正装である束帯(そくたい)を身にまとい、高価な烏帽子を頭に戴いた公家たちが座していた。
「目を覚まされたか、織田上総介(かずさのすけ)殿」
冷徹な、しかし極めて洗練された声で語りかけたのは、武家伝奏の勘解由小路晴臣(かでのこうじ はれおみ)であった。
その隣には、朝廷の伝統秩序を司る最高幹部、十条兼右(じゅうじょう かねみぎ)が、微動だにせず冷ややかな目で見下ろしている。
そして、信長の背後、完全に部屋の暗がりに気配を消して立っている男がいた。
白河家の長にして、神事兵法を統括する陰の執行者、白河雅景(しらかわ まさかげ)である。
「烏合の衆が……。余をこのような場所へ引き出し、タダで済むと思うてか」
信長が地を這うような声で威嚇する。しかし、勘解由小路は表情ひとつ変えず、手元の巻物を広げた。
「お静かに。ここは神聖なるお裁きの場でございます。織田殿、貴殿の罪状を読み上げ奉る。――比叡山延暦寺の焼き討ち、元号の強制改変要求、
そして、正親町帝への度重なる譲位の圧力。これらはすべて、千年の秩序を乱す大逆の罪なり」
「ふん、形骸化した古い権威など、余の新しい国家には不要なのだ!」
「その傲慢こそが、貴殿の寿命を縮めた。自らを『神』と称し、天子様の上に立とうとしたこと、それが最大の大罪なり」
軍隊を持たない公家たちが、言葉(文章)という目に見えない刃によって、天下人を精神的に完全に「敗者」へと仕立て上げていく。
千年の伝統という名の冷酷な重圧が、暗暗たる室内で信長にのしかかっていた。

四、歴史の抹殺
断罪は終わった。
夜明け前の神泉苑、薄い霧が立ち込める池のほとりへと、信長は引き摺り出された。
白河雅景が顎で合図を送る。白衣の執行人が静かに刀を抜き、一閃した。
どさりと、肉体が崩れ落ちる音が静寂に響く。天下を震え上がらせた織田信長の生涯は、あまりにもあっけなく、そして誰に看取られることもなく幕を閉じた。
数日後、京都の街には一つの『物語』が流布された。
――織田信長は、本能寺の炎の中で自害し、その遺体は跡形もなく燃え尽きた。
第六天魔王も国の闇により葬り去られた


